2002年10月
No.96
10/1(火)


台風21号
(サムネイルのみ)
戦後最大の規模と報道された台風21号が夕刻東京を直撃した。

そしてこの日勤務先企業の統合がなされた。アライアンス発表があってから約10ヶ月、職場のメンバーも準備のため本当に頑張った。日常の業務にプラスしての対応だ。大変なものである。

まだ流れに乗るには数週間はかかるだろう。あとひと頑張りだ。
No.97
10/12(土)


江ノ島
江ノ島へ行ってきた。多分40年ぶりくらいかもしれない。
島を巡る観光コースがある。といってもその道しかないが・・・・。
歩いて洞窟まで行く。そして折り返し戻る。

そこで気がついたのだが、何と江ノ島へ行きながら海や遠くに見えるだろう三浦半島や伊豆半島が見えないのだ。 道の両側は食堂、茶店、お土産やが軒を連ねている。もし景色を眺めるのならば、それらの店に入り何かを注文しないと景色が見られない仕組みになっているのだ。
それはないだろー!!!。

ほんの少しの隙間で海を見ることができた。秋の象徴であるススキが風になびいていた。
No.98
10/19(土)

初秋

朝夕が涼しくなりやっと秋の気配だ。

そんなとき北朝鮮に拉致された5人の日本人が一時帰国を果たした。北で生きる術を身につけ忠実な朝鮮人に変身したエリートたちである。彼らの神経障害を治療するためには時間が必要だろう。28日までの滞在中にそれが叶うとは思われないが期待したい。それができなければ死んだとされている他の方たちの真相が闇に葬られてしまう。

500名の韓国人も拉致されている。太陽政策は北に通用しないことがはっきりしてきた。韓国も早く北風政策に転じて欲しいものである。
右手で握手をしながら左手で銃を構える国はドンドン追い込むべきだ。

                     *     *

勤務先の退職したOBの集まりである社友会が昨夜開かれた。運営の事務局を担当する役割で私も参加した。 懐かしい面々300数十名が集まり賑やかなパーティとなった。毎年一回のこの会合、OBにとっては楽しみな会合である。
それにしても面白い現象だが参加者のほとんどがスーツ姿だ。
社友と会うのと同時に会社にも触れたがるからなのだろうか・・・。 会社にいるときと同じ上下関係で話をしている姿・・・。
なんだか変である。
No.99
10/26(土)


紀念講会
26日台北市で開催された「元台湾総督明石元二郎先生紀念講会」に参加するこ とができた。
「今日の会は明石氏の功績を称えるだけではなく彼の愛を通して日台の交流にしたい」旨、交流国際文化基金会・楊基銓董事長の開会 の辞によって始まった。 続くシンポジウムでは、前日本経済新聞社論説主筆の水木楊氏による「明石元二郎の人生」、台湾史研究家である楊碧川氏による「明石元二郎と台湾−植民統治の心理状態」の講演が行われ、明石氏の生い立ちや功績、エピソードが紹介された。

引き続き座談会が、現代文化基金会顧問であり司馬遼太郎の「街道を行く」で老台北として著名な蔡焜燦董事長の司会で行われた。
はじめに明石氏の墓地を手当てするため中心になって尽力された楊基銓董事長夫人の楊劉秀華女士による墓地建設にまつわるエピソー ドが披露された。明石氏の愛を日本国として何とか広く認識しても らい、その愛を通した友好を次代につなげていきたいという強い意思を感じさせるお話であった。

その後会場の参加者との活発な意見交換が行われた。 なかでも強い印象に残ったことは、明石氏の孫にあたる明石元紹氏 の「日露戦争、朝鮮統治の仕事は納得できるものだったかもしれないが、台湾での仕事についてはまだまだ本意ではなかっただろう」 という発言であった。 わずか一年四ヶ月でかなりの功績を残したとはいえ、病のために志 なかばにして帰国せざるをえなかったことは心残りであり、台湾を 愛するだけでなく、引き続き夢を成し遂げるためにも台湾の地を永眠の場所に選んだのではないか........そんな印象を強く受けた発言だった。

この様なイベントが台湾人によって行われたことは大変意義深いことであり、日本においても広く伝えたいことである。
(帰国後の11/2 楊基銓董事長、夫人の楊劉秀華女士と電話でお話をした。実に素敵な方たちだ。)
No.100
10/29(火)


竹田駅
台湾高雄から南廻線各駅停車の汽車で50分、竹田駅に行ってきた。日本時代の代表的建物の駅舎が保存されている。実に懐かしい風情だ。何となく子供の時に見たローカル駅の記憶を呼び起こす。
駅舎のすぐ近くに今回の目的でもあった池上一郎文庫が建っている。植民地時代に竹田地区で医療貢献した池上博士が、戦後日本の書籍を寄贈したり日本への留学生支援を続け地元の尊敬を集め記念に立てられた図書館である。
今でも現地の人たちで催されている読書会の会場にもなっている場所だ。
(詳細はホームページに掲載)

たまに通過する汽車の音しか聞こえてこない田舎だが、図書館でゆっくり時を過ごすことができた一日だった。

2002年11月
No.101
11/4(月)


まるこめオフ
久しぶりにまるこめオフ会へ行ってきた。相模原公園なので近くて便利。車の助手席にひなを乗せてドライブである。

まるこめとはダックスフンドのスムースの愛称である。30数匹のツルツルダックスが集合。数枚写真を撮ったがまったく絵にならない。ちょっと離れて撮影するとどこにワンコがいるのかがわからない。
我が家のひなは自分がワンコだと思っていないのか、よそのダックスにはまるで興味を示さない。どうも人間のほうが好きなようだ。

しばし公園で遊んだ秋の休日だった。

千点写行もやっと1/10となった。ここまで約一年半・・・・ってことはあと・・・・。
ううん。どうなることか。
No.102
11/23(土)
くもり時々雨


宮が瀬ダム
紅葉のピークとなる丹沢へ出かけた。平成になって完成した宮が瀬ダムを見てきた。あいにくの小雨模様だったが・・・。
帰りに七沢にある人気のラーメン屋へ。人気があるので多少は覚悟していたが、とんでもない数の待ち人。さっさとあきらめ、別のラーメン屋へ。 また別の機会にしよう。

本格的に寒くなってきた。
No.103
11/24(日)
くもり


八田與一
11/24三田祭で李登輝台湾前総統講演会が開かれた。まったく政治には関係ない台湾でダムを作った男、八田與一技師の偉業を称えながら日本精神について語ったすばらしい内容だ。若者に向けた内容というより古き日本人の心を思い起こさせる内容であった。
私人として来日するためのビザを発行した外務省も、やっと普通の国の外務省になったものだ。 李登輝先生はもう79歳。残す人生の次の楽しみは、「奥の細道」散策だそうだ。実現できる日も近そうだ。


本当は、以上のような書き出しになるはずであった。しかし、またしても日本国の恥をさらす結果となった。実に情けないことであり多くの友人・知人が涙を流したこの10日間であった。
講演草稿全文を入手したので早速HPに掲載した。広く内容を知って欲しいために著作権についてのきちんとした手続きは省略だ。
いつになったら「奥の細道」散策が可能になるのだろう。万一実現できずに他界したとなれば、日本国はとんでもないことを台湾人に対して行ってきたと言われるだろう。

来月15日には私も出席する予定だが、「日本李登輝友の会」が設立される。次の来日のチャンスはこの日だ。

2002年12月
No.104
12/1(
雨時々くもり


池上一郎文庫

10/29で書いた池上一郎博士文庫を管理している劉さんが電話をくださった。
ホームページ原稿の校閲の結果を知らせてくださった。丁寧かつきちんとした、日本人以上に、はっきりした日本語でお話をされた。
ドンドン乱れていく日本語が昔のまま守られている。しかも海外で・・・。 何ともいえないものだ。他国にこのような事例があるのだろうか?

1/16には文庫記念式典を行うので是非ご招待したいとのこと。何とか行かれるよう工夫しよう。

2002年も一ヶ月。企業人として、あるいは社会人として多くのことを考えさせられて年であった。来年あるいは再来年に色々なことが繋がりそうだ。

No.105
12/2(
晴のちくもり


2000/11王と
(サムネイルのみ)

20数年の台湾の友人・王昌明が昨日12/1に亡くなった。台北ではいつもいつも歓迎してくれた彼だ。
10月に台北に行ったときに余命いくばくもないことを知った。次に行くときまでもって欲しいと願っていたのだが・・・。

大切な友を失った。

合掌。
No.106
12/8(
くもりのち雨


HP更新
(サムネイルのみ)
ここ二ヶ月近くホームページのリニューアル準備をしてきた。一応新バージョンが整ったので12/7付でアップデートを行った。リニューアルのついでにリンク切れもチャックしながら進めたがついHP訪問で時間が掛かった。

リンクのリンクをたどると80歳を超えた方がHPを作ったりしているのにぶつかる。また、色々な方がネットで主張をしたり、家族を紹介したり実に多くのコンテンツがある。リンクのリンク、さらにリンクと切れ目なく流れていくネットワークコミュニケーション。
まさしく「友達の輪!」である。
知りたいことは必ずといっていいほどネット上で見つかる世の中になった。

すごい時代になったものだ。
No.107
12/9(


初雪
朝起きると一面真っ白。この冬初めての雪だ。
薄暗い白色キャンバスの中の光が気に入ったワンカットである。希望の灯りにも見える。

希望を持ち続けることがバカ呼ばわれされることも多い世の中。
それでもいい。それも ひとつの生き方だ。

バカは死ななきゃなおらない。
No.108
12/11(水
くもり


ガード下
同業の仲間との忘年会、数寄屋橋ガード下が会場だった。
店を出て何気なくガード下のトンネルを見たら、古いたたずまいであった。昔の日活映画に出てきそうな風景。残念ながら写真にしたらあまり煙が目立たなくなってしまったが、焼き鳥を焼いている煙が立ち昇っている。
段々昔を思い出させるようなところは減っていくのだろう。

二次会は銀座のJAZZハウス。いつもの「All of Me」をリクエストした。
No.109,110
12/15(




日本李登輝友の会設立大会

数週間ぶりの晴の日曜日15日、ホテル・オークラで「日本李登輝友の会設立大会」が開かれた。
400数十人の発起人を含め1000人を超える 参加者となった。
大会では会長に阿川弘之氏が選任され、後半は「日本精神と台湾精神」という演題で李登輝先生の講演だった。
しかし李登輝先生はこの場にはいない。
日本が来日するための査証を発行しないからだ。実に残念なことだが、インターネットによる李登輝先生の講演となった。
新渡戸稲造氏の武士道を題材に、武士道は世界の規範になるものであり、今一度武士道の素晴らしさを振り返って誇りある日本精神を取り戻して欲しいという内容の素晴らしい講演であった。
講演が終わると、拍手が平安の間から長い間止まらなかった。

講演会最後の李登輝先生のコメントは、「時期がきたら是非奥の細道を日本の皆さんと歩きたい」であった。

李登輝先生も、もう80歳、一日も早く実現させてあげたいものだ。
日本李登輝友の会の役割でもある。

No.111
12/21(土


宮が瀬ツリー
11/23に続いて宮が瀬へ行き、巨大クリスマスツリーを見てきた。10,000個の電飾で飾られたツリーは見事であった。
何年か前にフィリピンでクリスマスを迎えたことがあったが、深夜の教会で大きな輪をつくり握手し合ったことを思い出した。
宮が瀬ツリーの場所では宗教的儀式はないだろうが、多くの方が毎年くるという。 とかくダムというと住民との軋轢が多いそうだが、ここ宮が瀬ダムは住民との融和が行き届いた地域のようだ。
暖かくなったらおにぎり持参でワンコを連れてこよう。

あと10日で2002年も終わりだ。
No.112
12/22(
くもり時々雨


台日カラオケ交流
台日親善文化交流カラオケ大会が横浜教育文化センターで開かれた。
初めて、ステージで行われるカラオケイベントに行ってきた。

出演者の衣装にまずびっくりだった。次に堂々たるステージにまたびっくり。最後に、プロではないかと錯覚するほどのうまさにびっくりであった。

歌と踊りで総勢100組(うち台湾から30数組)のイベント。 こういうイベントは各地で開催されているという。ピアノやエレクトーン発表会と同じようなものだ。
No.113
12/31(
晴時々くもり


大晦日
(サムネイルのみ)

年末恒例の「アラカルト」観劇もできた2002年。

昨年も同じだったが喜怒哀楽の激しかった面白い一年だった。

2003年はどんな年になるだろうか。どうせなら、やっぱり、面白おかしく生きたい。


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