日本が台湾で学校教育をはじめたのは明治28年7月。
台湾総督府開設から1か月も経たないという早さだった。
当時、文部省 学務部長心得であった伊沢修二は、初代の台湾総督の樺山資紀に、教育 を最優先すべきと具申し、7人の志ある人材を連れて台湾にわたった。
彼らは、台北市内、士林(しりん)の芝山巌(現在は芝山岩・芝山公園) に学校を開設し教育をはじめたが、悲劇は、翌年1月1日、伊沢の一時
帰国中(山田耕造を伴い台湾での教育従事者募集のため)に起こった。
新年祝賀のため総督府に向かった6人の教師に、日本統治に反対する勢力が襲撃したのである。
当時は、日本への割譲に反対する清朝残党がゲリラ活動を続けており、 台北奪回を目指す勢力が不穏な動きを続けていたことは以前から察知さ
れていた。
それでも伊沢たちは学堂に泊まり込んで「身に寸鉄を帯ずして住民の群 中に這入らねば、
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教育の仕事は出来ない。もし我々が国難に殉ずること
があれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」と、 死をも覚悟して芝山巌での授業を続けていたのだった。
叛乱勢力が元旦を期して台北を攻撃するという。人々は学堂に残っていた6人の教員にこのことを告げて、避難することを勧めた。
しかし「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」との覚悟を示して6人の先生たち意に介さなかった。6人は約 100名からなる勢力の襲撃を受けた。6人の教師はひるむことなく教育の重要さを必死に説いた。しかし、それに納得しない暴徒は教師達に襲いかかり、全員を惨殺してしまったのである。
このような彼らの教育に対する情熱、精神は多くの人々に感銘を与え、その精神は芝山巌精神と称され人々の間に語り継がれるようになった。
昭和5年には芝山巌神社が創建され、六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じた人々が、昭和8年までに330人祀られた。 そのうち、台湾人教育者は24人を数えた。
また、「六氏先生の歌」がつくられ、時の首相伊藤博文揮毫による「学 務官僚遭難之碑」も建てられるなど、六氏先生の精神は台湾の学校教育
の原点となっていったのである。
ところが、大東亜戦争後、台湾に乗り込んできた国民党は、神社、石 碑、日本人の墓を次々と破壊、「学務官僚遭難之碑」も倒され、そのま
ま野ざらしにされてしまった。
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しかし、李登輝政権の誕生、陳水扁台北市長の誕生と、一連の台湾民
主化の動きが進む中で、六氏先生の精神を復権する動きも高まり、芝山 巌学堂が開かれて満百年にあたる平成7年(1995)には、芝山巌学堂の
後身である士林国民小学校で、日本からも多くの卒業生、遺族、教育関 係者を迎え、開校百年記念祝賀式典が盛大に開かれた。
また、同年1月1日には、同小学校卒業生有志によって、「六氏先生の 墓」が新たに建て直され、その後さらに「学務官僚遭難之碑」も再び建
て直された。
新しい墓は日本式の簡素な墓である。墓標には六氏先生之墓とあり、氏
名も業績を示す墓誌もない。
墓標の右側に「一八九六年卒」と没年を、 左側には建立者の名前として「一九九五年一月一日壱百周年紀念 士林 国小校友会重修」と記されている。
芝山巌事件を詳しく調べている陳絢暉氏は、その著書「非情古 跡・芝山巌」を次のように結んでいる。
「仆(たお)れて後已(や)む」の芝山巌精神が永しえに台 湾に根づくことが出来ますよう、地下の六氏先生にお頼み申し 上げます。合掌。
芝山公園 :
MRT士林駅前から206番バスで7分「芝山公園」下車
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