
大正7(1918)年に台湾に赴任した第7代総督明石元二郎は、日露戦争において機密工作によりロシア革命を支援し、日本の勝利に大き
く貢献した蔭の立役者であった。 |
明石は赴任すると、まず各地の巡視を丹念に行い、民情の把握に努めた。台北刑務所を巡視した際には、受刑者は二十
四、五歳に多いという説明を受けると「それはまことに、相済まぬことである」と言った。 二十四、五歳の受刑者といえば、日本統治が始まってから生まれた計算になる。明石は、日本統治にまだまだ至らないところがあるために、青年の犯罪を生んでいると考え、さら
なる善政への決意を新たにした。
明石の在任期間は1年4カ月と極めて短い。 しかしその間に日月潭水力発電事業の推進、台湾新教育令の公布施行(内地人との教育上の区別を少なくし、台湾人にも帝国大学への道が開かれた。ちなみに前総統の李登輝氏は京都帝国大学出身である)、司法制度(今までの二級審から三級審へ)の改革、嘉南銀行の設立、台北高等商業学校の設立、道路や鉄道など交通機関の整備、森林保護の促進など精力的に事業を進めた。
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台湾統治に並々ならぬ力を注いだ明石総督は、将来の総理大臣という呼び声も高かった。
しかし、大正8年、病にあった明石総督は公のため本土へ渡航、その洋上で再発し、郷の福岡で没した。
「もし自分の身の上に万一のことがあったら、ず台湾に葬るよう」との遺言によって、遺骸はわざわざ郷里の福岡から台湾に移され
北の日本人墓地に埋葬されたのである。
しかし、大東亜戦争後、日本人墓地には中共に追われた国民党軍の敗残兵や難民が住みみ、墓石を住居の土台にしたり、ベンチ代
わりに使うなど、墓地はスラム街と化し目をう惨状となった。台湾を支配した国民党政権は、この惨状を放置したが、これを救ったが、1994年に国民党以外から初めて台北市に当選した陳水扁氏(現・総統)だった。 |